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<企業団二十年の歩みより>


「企業団設立の回顧」
 

 初代事務局長 久保村 文 人


 上伊那に、新規ダムの建設が計画されていることは、伊那市内の県の職場で聞いていたが、昭和54年4月下旬に、人事異動の内示があり、そのダムからの取水で、上伊那の広域水道事業を行う、準備事務に従事するという内容であった。人事発令は、4月27日県庁で行われ、業務の重大性を改めて強く感じた。

 準備事務は、私のほか県土木部から古田貞治氏(伊那市西春近)が発令となり、当初二名が県庁衛生部環境水道課内で行い、後に上伊那から大槻茂範氏(箕輪町)が加わった。

上伊那へのダム計画は、昭和40年代後半頃から浮上しており、県土木部は昭和47年4月に、箕輪町沢川に、治水ダムとしての予備調査を開始し、また、同年7月上伊那地域広域行政事務組合では「圏域的な統一水源確保のため水源、水量、水質調査」「水資源確保のため、ダム等の調査」「広域水道計画の策定」「県営による原水供給施設の設置」等について、長野県に陳情を行っていた。

 この時期は、経済の高度成長に併せて、生活態様の急激な変化、向上とともに、水需要の増大が予測され、将来への水資源確保が論議され、とりわけ当時上伊那地域の水道水源は、その90%近くを地下水、湧水に求めてきており、特に地下水は、深井戸くみ揚げ施設の建設、維持費が大きく、また、地下水汚染の問題も浮上し、市町村単独での水源開発は順次困難となってきた。

 そうしたなかで、国の採択を得た県土木部は、昭和49年4月から沢川のダムの実施計画調査に移行し、本格的な調査に入っていた。

 沢川のダムは、当初の治水ダムから多目的ダムに変更し、洪水調節、流水の正常機能維持、上水道用水の三目的のダムとなっていた。

 また、水道用水の供給については、昭和52年3月上伊那地域広域行政事務組合の要望を受けた長野県が、「上伊那地域広域水道基礎調査」を実施し、この調査結果に基づいて具体的な治水、利水の基本計画が策定されており、ダム貯水による上伊那地域広域水道の事業として、伊那市、駒ヶ根市、箕輪町、南箕輪村及び宮田村への水道用水供給施設の計画を推進することとし、昭和53年12月県と上伊那5市町村とで、「上伊那広域水道研究協議会」を設置して、事業主体等の協議を重ね、昭和54年4月に県も参加する「企業団」組織で実施する方向となっていた。

 慌ただしく着任し、事業の全貌を知ることにより、困難な大事業であることを実感しながら、企業団設立と水道用水供給事業の準備事務を進めた。

 県が加入する企業団(一部事務組合)の設置については、直接自治省(行政局振興課)、また水道用水供給事業については、県衛生部、厚生省の指導を受け、当時県加入の企業団は長野県では先例がなく、全国でも数県に設置されているのみであったので、先例については、北海道の「石狩東部」、千葉県の「君津」、静岡県の「大井川」の各広域水道企業団の教示も受け、県と上伊那5市町村による「上伊那地域広域水道推進協議会」を設置して、協議を深めながら推進を図った。

 一方水道水源のダム建設計画については、実施計画調査が進められていたが、ダム建設予定地の水没者(37戸)の移転問題が難航するとともに、下流域の利水者の権利関係が困難を極めており、県土木部は昭和55年度の国の事業採択に向けて、日夜対応を続けていた。

 また、ダムからの水道用水の取水及び浄水、送水計画について、広域水道基礎調査では、ダム下流取水で直ちに浄水し、ポンプ圧送で天竜川右岸へ送水して、下流市町村へ送水する方式となっていたが、天竜川左岸の浄水施設予定地には、埋蔵文化財遺跡があり他に適地が得られないため、ダム直接取水に変更し、原水を自然流下で天竜川右岸へ導水して浄水する方法に、改めざるを得なかった。そこで浄水場用地として、箕輪町沢区所在の県営箕輪苗圃の一部(三万平方メートル)の譲渡について、県林務部に要望を重ねた。

 企業団摂理得準備の当初は、昭和54年10月に企業団を設置し、翌55年4月に水道用水供給事業認可を得る計画であったが、ダム建設計画の遅延などにより、企業団設立を昭和55年4月に送り、同年9月に事業認可を受けるよう準備計画を変更して、特に5市町村の議会対応を図りながら、昭和55年3月定例会への、企業団設立議案の提案準備を進めた。

 また、ダム建設採択の促進を図り、建設省への陳情を繰り返し行うなかで、昭和55年事業採択の見通しとなったので、同年4月1日の企業団設立許可申請準備を急ぎ、自治省の「企業団設立に関する内協議」の許可を受け、県、5市町村の3月議会での企業団設立議決を得ることができた。

 そこで、3月27日に上伊那地域広域水道推進協議会を開催して、企業団の名称を「長野県上伊那広域水道用水企業団」と決定し、企業長に伊那市長三沢功博氏を互選するとともに、昭和55年度企業団一般会計予算(水道用水供給事業を9月に受けるまでの5ヶ月間の予算)を、1,700万円とし、財源は構成6団体の負担金とする。

 また、企業団職員は当分の間構成団体からの派遣職員を充て、県と市町村でおよそ半数とし、昭和55年度は県3名(主幹 久保村文人、主幹 古田貞治、主任 細田出海)、伊那市1名(主幹 三澤淳夫)、箕輪町1名(副主幹 中坪平治)の5名とするなど協議決定し、3月28日自治大臣に「長野県上伊那広域水道用水企業団」の設立許可申請を行った。

 企業団設立とともに、かねて借受けが決まっていた県伊那合同庁舎四階(401402号会議室)に、企業団事務所を開設し、4月9日推進協議会を開き、企業団設立の経過の報告を行うとともに、今後の企業団運営について「長野県上伊那広域水道用水企業団運営委員会」を設置して協議していくことにした。

 新規ダムによる、広域水道用水事業に従事することになってから、二十年の歳月が過ぎた今、蛇口からほとばしる水を掬うと、遠く沢川の清流の香りを感じ、この大事業に参画することができた歓びを尊く想う。