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20年の記録

<企業団二十年の歩みより>


 

「鮮明な思い出」
 

 初代企業団議会議長 溝上正男


一つのものが出来上がるには、それを必要とする社会的背景と言うものと、それを正確に受けとめて努力する者が合致して初めて成立するものである、と言う方程式みたいなものがあるのではないか、と私は自分の人生のなかで、感ずる事がしばしばあったと思う。

 いま、上伊那広域水道用水企業団の「創立二十周年の歩み」の記念誌の発刊の話を聞いて、改めて振り返って二十年前のことと人に思いを馳せて、その感をいっそう強く感ずると共に、世の進みと人の去来に、懐かしさと万感の想いがこみ上げて来ます。そしていま、私達が日常どんな旱魃の時があろうが、水にいささかの心配もない、と言う事の現実に歴史の歯車の重みと、人と人とのかかわり合いが映す歴史の教訓みたいなものを、しみじみ感じています。思い出は正に二十年からもっとさかのぼって、箕輪ダム工事着工と着工までのいきさつ等、三十年近い間のいろいろの経過などが、改めていきいきと思い出されてきます。

 沢川にダムを造って上伊那の広域の用水確保をする計画は、大分早くから企画され、それなりに準備が進められた。当初この計画に対して、どこでもある様に地元の反対や、また着工への地元の条件等がいろいろ提起された。当時、伊那市長で広域の長でもあった三沢功博氏が主導で、地元との話合いが何度も持たれた。

 一番記憶に鮮明にあるのは、沢川の流域になる南小河内区の集会所で開かれた集会、夜だったが私と三沢市長、それに当時企業団の事務局長だった久保村文人氏とが出席して、地元民との話合いは、当初地元民の代表らから強硬なダム反対論が出され、三沢市長は、「それ程反対なら、このダム計画には私も反対だ。」と息まいて、私達がまあまあと止めに入って、その場を治めた事もあった。
 その席には、当時まだ町会議員だった井沢通治氏もいたと思う。直接地元区民の内、戸田七郎氏は、条件でまとめ様として努力してくれたし、山口豊春氏もいろいろ努力してくれた。戸田氏は、被害者の直接補償の問題で、山口氏は、ダム完成後の水源確保を条件に、水源林造成を強く主張された。その事で、山口氏の要望に具体的な回答が出されないままでダム工事は進み、いよいよダムへの湛水をはじめようと言う時、今もありありとその時の動きを覚えているけれど、丁度、私が県会開会中で長野に居る時だった。明日から湛水開始と言う前日、事務局からの電話連絡で「このままで湛水に入れば、俺はダム底で座り込みするから」と山口氏が言っている。県のダム工事事務所も困惑していた。
私は、急きょ長野から帰って山口氏と話し合う事にして、夜現地へ出かけて山口氏と会って話し合った。山口氏は「前から要請した様に、ダムの水源を永久に確保するための水源林造成への約束をはっきりせよ。」と強く迫った。私は、前々から「直接の被害補償もだが、この水源林造成の公約は当然やるべきだ。」と思っていたので、その時点ではすでに地元箕輪町の町長となっていた井沢通治氏とも連絡し、また三沢伊那市長とも打合せて、「よし、それは約束する。」との回答を与えて、山口氏の納得を得て、円満にダムへの湛水の開始が出来た。思い返して懐かしくもあり、良かったとの思いも強い。

いま、あのダム湖(もみじ湖)に湛えられた美しい水、そして公約通りに造成されている水源林、上伊那の広域の水道の水源として、永久にこの美しい姿は守られていくだろうと思うと、感慨無量の思いがします。そして、永遠にこのダムが地域の役立ちがつづく様にとの願いをこめて、思い出の記とします。