30年のあゆみ 創設の経緯 本文へジャンプ

<企業団二十年の歩みより>


「水資源開発と流域住民」
 

 箕輪ダム集水域地権者協議会顧問(初代会長) 山 口 豊 春
 


1)初期の補償対策

 沢川にダムの設置が地域住民に提示されて以来、数えてみれば二十年になると言う。その間地元対策の責任者として、又組織の委員として様々な段階を経てきたが、一貫して関与してきた。

 ダムサイトの計画立地は、すべて長岡区の所有する山林であり、谷間に住む三十数戸長岡新田として江戸時代より小部落を形成してきた歴史があり、半数が水没、半数が非水没であったが、全戸が移転を余儀なくされる結果となった。

 この二十年間の前半はダム建設を容認するか、否かであった、世論は賛否両論あり、先ずは何れに決しようとも住民意志を統一することであった。しかし、このことは至難の技と思われた。経験のないこと、又知識の浅い私には重すぎる課題であった。幸い知人に京都大学農学部森林経理学科の教授がいて、私の求めに応じてゼミに参加するよう勧められた。

 実は、この講座は建設省の依頼を受けて、全国のダム関係の補償基準を原案として作るところであった。このことは予期しない奇遇であった。そこには全国のダム関係の資料があって、必要と思われるものは全部箱に入れ持ち帰った。何れのダムも国の予算から出させる金額では満足な補償とならないので、不足分は都道府県が背負い込むものだととの結論であった。

 以来県の出先機関との交渉に入ったが、世間でよく言われるゴネ得という言葉が嫌いであったので、論理の整合性に重きを置くこととした。

 県は調査段階を終えて報告書が作られた。その中で、『ダムは沢川流域綜合開発の一環である』と位置づけていた。これは作文上の美辞麗句であって、上流域に水利権を設定し水道用水を確保する以外、何の発想も計画もなかった。

 地元民は、この流域綜合開発と言う発想に整合すれば、如何なる要求も通るはずだと主張し、移住者受け入れの母村として、『村落再構築』をスローガンに下水道などのインフレ整備を中心に各種の公共事業を立案し、年次計画に整備してこの案を住民に提示し、住民意志として統一した。至難とした住民意志の決定は、一人の異議もなかった。この間数年を要したが、私の人生にとっても快挙であった。かくして昭和59年3月26日、ダムサイト売却を初め各種の振興計画が合意されて、ダムの建設はゴーサインとなった。

 但し、次の二項目は、引続き協議することとした。

 @ 沢川下流域の水田耕作者のもつ水利権の権利保証と運用上の特約

 A ダム上流域山林保全と応益分担について基金制度の創設

2)ダム上流域林野の現状と課題

 長岡、南小河内、地域村落との合意ができて、ダムの建設は着工となり、工事の完了まで数年を要した。この間前記した懸案の解決のうち@については翌年度に解決して、残るはAの問題のみとなり、広域水道用水企業団がその答えを出すことが約束されていた。しかし、容易に答えは出なかった。

 ダム上流域山林所有者は古くから組織されており、江戸時代の村数で54ヶ村、現在の集落村数で21集落、財産区あり、生産森林組合あり、諏訪郡10ヶ集落、辰野町4ヶ集落、箕輪町で5ヶ集落、伊那市1集落、高遠町1集落、全体で5,000町歩といわれてきた。ダム集水域の90%以上を占めている。

 この山地は、江戸時代中期(元禄)に入会山論あり、幕府の裁定により入会権は確定した歴史的経過があった。明治維新期地租改正の折り一時国有化され、行政訴訟により勝訴し第二種民有地(入会林野)となった。又昭和19年時の長野県知事、郡山義雄が仲裁者となり包括的入会権を村落個々に分割され現在に至っている。

 戦後は県行造林、特殊県行造林(王子製紙)など大部分が分収林となっている。樹種は唐松を主体に一部赤松となっている。

 山林所有者にとっては現在の市場価格から逆算すれば、搬出運搬経費を賄う程度のもので、木材はゼロ若しくは赤字となっている。林業としては成立しない現況である。日本の木材需要はすべて輸入材で賄っている現状から、特殊県行造林は王子製紙の例の如く不良資産とみなされ、格安の価格で契約してある地上権を買い取って欲しいとの申し入れがあり、長岡、南北両小河内三区は応じたが、価格は一町歩あたり何と三万八千円程度であった。植林、草刈、除伐、間伐と撫育して3040年生の林が苗木代程度であった。王子製紙も気の毒だと思ったが、買い取った所有者も又将来に明るい見通しもなくただ伐期を自由に決められるだけのものである。

 将来に向けての長期の展望を考究するため、信大農学部森林科学科の教授に検討を依頼した。木村・嶋崎両教授が現地調査を行って、学部生4名、大学院生3名が山に入り、学部生には各々二町歩の山林を与えて、自由に構想して作業は地元が協力し、幾つかのタイプのモデル林を設定し、卒業論文としてまとめた。院生のうち一人は二ヶ年間を費やしてダム上流を対象域として『水源地域森林の施業体系』との学位論文としてまとめ上げた。

 施業方針も定められないまま推移してきた山林所有者にとって元気づけられるものであった。細部の紹介は紙巾がないのでできないが、要は県行造林或いは自営造林にせよ伐期50年として管理を行ってきたことから70年、80年或いは百年を考える長伐期、大経木生産時代を想定し、それに向けた密度管理を今行い、小面積を早めに皆伐するものと遅めに行うことを考慮して将来の法正林化を目指すこと、間伐により太陽光をより多く地上に取り込み下層植生を繁茂させ森林のもっている水土保全機能を発揮させることにあると結んでいる。


3)森林の公益的機能と費用負担

 ダムの建設工事は完了し、いよいよ湛水を行う段階となり、様々な約束ごとの見直しを行ったが未解決の課題は、基金制度の創設の一件だけとなった。ダム上流域地権者としては、主張の根拠を明確にするため信大農学部嶋崎・木村両氏に依頼して基金の在り方、数量的把握の指導を求めた。基金は単に金利収入だけに頼るとすれば、概算で6億円程度は必要であるが、先進各地の例からみても需給の年次バランスの不均衡に対応する方策が必要であろうとの答えであった。

 ダム上流地権者協議会は、制度の創設を評価して、1億円でスタートすることを了した。このことについて若干の附言をすれば、県は林務部長名で専門研究者数名に依頼して委員会を組織し、次のような報告書を刊行した。『森林公益的機能拡充方策研究報告書』『林業山林地域振興モデル調査報告書』この報告書は昭和5657刊行である。

 吾々の主張の根拠は、この報告書によるところが多い。執筆者の一人である信大農学部木村和夫氏からコピーしてもらったものであるが、この種の情報は広く公開してほしかった。

 水は蛇口をひねれば出るものといった低い住民意識のレベルを脱皮して、水資源開発は下流域住民と上流域住民のコンセンサスにより、永く安定的に確保できるものとの論理を積極的に提示してほしかった。